フェイクニュースは「不幸なエンタメ」
3月4日㈪、たまたま家でテレビをつけていたら、NHK第一の番組のクローズアップ現代で「フェイクニュース」特集がされていた。
【番組内容】
日本との親善に尽くした台湾の外交官が、去年9月、自ら命を断った。発端は、関西地方を襲った台風21号。空港で孤立した旅行者への対応を巡って、ある“情報”がネットに書き込まれ、SNSを通じて拡散。それを基に台湾の市民やメディア、政治家による厳しい批判にさらされたのだ。ところが、亡くなった翌日、拡散した情報は“フェイクニュース”であったことが公になった。外交官の死が、私たちに訴えかけるものを徹底取材した。
(番組HP引用)
普段テレビ番組は見ないことが多く、新聞・ネット・ラジオからの情報収集がメインだった僕だが、映画監督でありメディア批評についてコメントをしている森達也さんや、番組後には元アナウンサーでありジャーナリストの堀潤さん、今、僕が入っているオンラインサロンPLANETSCLUBの主宰で評論家の宇野常寛さん、去年「君たちはどう伝えるか」を出版したオリエンタルラジオ中田敦彦さんがコメントするコーナーもあり、地域でメディアプロデュースをしている(これからもしていく)自分にとってフェイクニュースは向き合わなかればならないと思っていた。
1月末にもフェイクニュースをテーマにした佐々木俊尚さんの講演会にも参加し、感想をブログを書いたので、こちらもご参考まで。
shining-kotaroizumi1008.hatenadiary.jp
今回のトピックについては冒頭の方に番組HPを載せておいたので、そちらを参考にしてほしいのだが、ここでの問題点は「SNSによって不確かな情報が一人歩きし、世論やメディアが振り回されている中、情報発信においても責任が求められるようになった」ということだ。
スマートフォンが世界に普及をし、日本でも所持率も年々伸び、それと同時にSNSを利用する人も増えている。さらにはSNSを駆使しビジネスをするインフルエンサーも現れ、SNSはテレビや新聞・雑誌に代わる第3のメディアにだと言っても過言ではない。
スマートフォンの普及で誰でも手軽に情報取得、処理・編集・発信ができる時代となった今、フェイクニュースは情報報道において新たな問題として取り上げられるようになった。特に問題が形骸化したのは、世界的代表例ではアメリカ大統領選、日本では熊本地震ではないだろうか。
僕が初めてフェイクニュース触れたのは日本では熊本地震で「ライオンが放たれた」というSNSの投稿を見た時だった。あれはすぐにフェイクとわかったが、最近見たのは動画と音声技術を駆使して作り出されたアメリカのオバマ前大統領がまるで本人が国民たちを批判するスピーチ動画だ。あれには精密な分析をしない限り、フェイクとはわからないものだと思った。
話が少し反れてしまったが、今回の事件は根拠のない批判がSNSで炎上をし、メディアや議員から非難され矢面に立たされた台湾の外交官が精神的に追い込まれ、自ら命を絶ってしまい、その後それがフェイクニュースだとわかったという罪なき者が社会によって殺されるという悲惨なものだった。
この問題背景としてSNSの使用が日本よりも高いとされている台湾ではおそらく情報取集もSNSがメインで、手軽に発信できることで、新聞やテレビよりも早い報道が可能になったことだ。そこでマスコミはSNSやインターネットの情報に負けてはならないという風潮があったという。それによりSNSで得た情報をファクトチェックもなしで公に報道した結果、世論が暴走したのだという。
今では台湾の行政院(日本でいう内閣府)はSNSやインターネットの情報からファクトチェックを行い、フェイクニュースいち早く見つけ出す取り組みを行っているが、正直これは行政のアクションだけでは解決しきれないものである。
フェイクニュースの背景として、情報を作り手と受け手による相互の違いによるものでもあると僕は考えている。
作り手が伝えたいことに対して、受け手がほしい情報のレベルの距離感が遠すぎたり、至近距離であったりすると、暴走しはじめ、拡散され、ミルフィーユ状に事実と嘘がごっちゃに重なり、整理困難なものとなったものを総称してフェイクニュースなのかもしれないと僕は考えた。
つまり、誰かの真実は誰かにとっては嘘であり、誰かの嘘は誰かにとっては真実という原理が働いていて、それを複雑化した塊みたいなのがフェイクニュースで、それにより「とりあえず、これを伝えないと自分は不安」だという、殺害予告されたチェーンメールの回し合いを巨大化したムーブメントに多くの人が巻き込まれ、振り回されてしまっているのが今の情報社会だと僕は番組を通して考えることできた。
番組後、ネットメディアの課題について言及をしている堀潤さん、宇野常寛さん、中田敦彦さんはこのようにコメントしている。
「“鈍重なインターネット”がむしろ面白いことを証明したい」と、評論家の宇野常寛さん。#フェイクニュースだった pic.twitter.com/3kd2eTngvN
— NHK「クローズアップ現代+」公式 (@nhk_kurogen) 2019年3月4日
「当事者と取材者が直接つながるそんな固い結びつきをつくりたい」と、ジャーナリストの堀潤さん。#フェイクニュースだった pic.twitter.com/CUaHr4WvTw
— NHK「クローズアップ現代+」公式 (@nhk_kurogen) 2019年3月4日
「“つぶやき”って言葉は本当に良くない」と、タレントの中田敦彦さん。#フェイクニュースだった pic.twitter.com/ExvA02FN2q
— NHK「クローズアップ現代+」公式 (@nhk_kurogen) 2019年3月4日
3人のコメントをまとめるとこうだ。
①「考えるツールのためのインターネット」が今は速すぎるため、逆に遅くして良質な読み物を考えるためのインターネットに戻していくことをしていく必要がある。
②情報の出処にすぐアクセスできるようにお互いが持っている情報を見える化するためにも発信者と現場の強いのつながりを作ることが真実を伝えることにつながっていく。
③「つぶやき」という個人的なものではなく、SNSでの表現はパブリックなもので、「発信」として説明責任を持てるものとして自覚する必要がある。
僕はフェイクニュースは世の中の不安を具現化したものだと考えている。
自然災害や社会問題で自分の身が脅かされた時、「自分は今どこにいるのか」と自らの立ち位置、ポジションを気にする。それを払拭するために手軽なSNSを使い、情報収集した結果、「とりあえずみんながコイツが悪いと言っている」ことを信じ、一緒にその人に石を投げては安心を手に入れる。それがどんどん広がっていた結果が今回のような悲惨なものを生んでいしまったのだと思う。まさにフェイクニュースは「不幸なエンタメ」である。
自分の身が脅かされた時、不安になって目の前の情報や周りの雰囲気が気になるのも確かにわかるが、今回のように流されて発信した結果、誰か一人の命を奪ってしまうことになる。あなたの投稿やリツイートが誰かの人生を左右するものになるかもしれない。そう考えてしまうと、身動きが取れなくなってしまうのもよくない。
僕が提案するのは宇野常寛さんも掲げている「遅いインターネット」に近い考え方だが、常に自分が主体として考えられるような余白を作っておくことだ。つまり、不確かな情報に出会ったときに、第一手だけでなく二手、三手を用意しておくということだ。
日本ではまだフェイクニュースで悲惨な事件はあまり起きていなく、逆に東日本大震災でTwitterを駆使した情報掲示板を作ったりと、SNSのホワイトな部分がしっかり働き、多くの人に役に立った。しかし、インターネットの速さは増し、振り回される人はきっと2011年に比べたら、少ないとは言い難いと思う。
人々の思考のツールである、インターネットやSNSを自らの手で暴走させ、今回のような不幸なエンタメに巻き込まれないためにも情報取得・発信する責任はマスコミだけではなく市民レベルで向き合わなければならないものである。
包丁はおいしい料理を作れるが、人を殺すこともできる。
情報も人々に感動や勇気を与えるが、同時に不安や絶望に追い込むこともできる。
おわり