イズミズム -日記版-

地域活動家やライターとして活動する泉光太郎の日々を綴る日記ブログです。発信分野は問わず発信します。少しでも僕のブログを通して地域や社会について一緒に考えていけたらなと思います。ぜひお読みください。

映画『ラジオ・コバニ』から学んだラジオの価値

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どうも、イズミです。

ダウン明けからいつも通り動いていましたが、昨夜から喉が痛くなってきました。

イズミ家では母親がインフルAと診断され、家は妹の受験のため殺伐としているところです。

さて、11日㈪のことですが、また地元の施設で上映会があったので、観に行ってきました。

今回観たのは『ラジオ・コバニ』というイスラム戦線となっていたクルド人街にいる大学生のノンフィクション映画。

~映画のあらすじ~

トルコとの国境に近いシリア北部のクルド人街コバニは、2014年9月から過激派組織「イスラム国」(IS)の占領下となるも、クルド人民防衛隊(YPG)による激しい迎撃と連合軍の空爆支援により、2015年1月に解放された。人々はコバニに戻って来たが、数カ月にわたる戦闘で街の大半が瓦礫と化してしまった。

そんな中、20歳の大学生ディロバンは、友人とラジオ局を立ち上げ、ラジオ番組「おはよう コバニ」の放送をはじめる。生き残った人々や、戦士、詩人などの声を届ける彼女の番組は、街を再建して未来を築こうとする人々に希望と連帯感をもたらす。

(「ラジオ・コバニ」公式HP引用)

 シリアなど、中東に関する知識については勉強不足ではあったが、戦争で荒廃した町の復興をするために大学生であったディロバンは友人とラジオ番組を立ち上げ、番組を通じて町の現状、現場の人の声など戦争で生き残った人々の声を町に届け、町に喜びや希望といった明るさが見えてくるというものだ。

実際にラジオとして情報を報じる際に、スタジオには二人、現場には一人が取材をするが、町の声を集めてそれを全体に報じるというラジオを運営する若者たちはまさにジャーナリストそのものであった。

今回、僕は「ラジオの価値」は非日常化した世界を整理して日常に戻していく力そのものではないと考えた。

音だけのラジオでもコバニの町にとっては戦争で荒れてしまい、これから何を希望して生きていけばいいのかをという人たちにとって、ここにコバニの人の声や音があることはこれからのコバニの未来を生きるための希望なのかもしれない。

そういう意味では地域に根差したメディアというのは地域住民の安心材料として有事の時に役に立つ情報ツールでもある。

最近、閉局をした東北のコミュニティラジオ「災害FM」も「ラジオ・コバニ」のように震災による非日常化した世界で生きる人々に報道を通して日常として届けていると考えると復興のためにはまずは情報による安心も必要のだと考えた。

メディアの役割においては届けるのは世の中を非日常化するではなく、非日常化した世界を日常に戻すための報道である。最近ではフェイクニュースなど人々がメディアに対する不信をもたらしてしまうところがあるが、それと向き合いながらも、日々、市民の日常を届ける記者としていきたいとも僕は思った。

現在、僕は「インターネット×地域コミュニティ」を使って栄区地域活性化を試みたいと考えている。そこで、計画段階ではあるが、栄区のコミュニティラジオをインターネット上で開局すること企んでいる。という中学生の時にラジオパーソナリティに憧れていたこともあったとので、それなら栄区のためになるものしていこうと思ったので企画をしているんですが…(笑)

今回の映画をヒントに栄区が誇るコミュニティラジオを作っていきたいので、興味ある人は僕に話しかけてみてくださいね(笑)

 

おわり